『山頭火百二十句・道の空』村上護(春陽堂書店1992)より抜粋
どうしようもないわたしが歩いてるゐる
雪へ雪ふるしづけさにをる
生死(しょうじ)の中の雪ふりしきる
何を求める風の中ゆく
砂に足あとのどこまでつづく
ゆく春の夜のどこかで時計鳴る
水に影ある旅人である
蜘蛛は網張る私は私を肯定する
よびかけられてふりかへつたが落葉林
山裾あたたかなここにうづめます
ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ
新聞連載された一句鑑賞文を纏めた一冊。金子兜太氏、石寒太氏の評論と読み比べると、村上氏の考察の深さが際立つ。
「俳句ほど作者を離れない文芸はあるまい。一句一句に作者の顔が刻みこまれてある、その顔が解らなければその句はほんたうには解らないのである」と山頭火は書き残している。
確かに作者の顔が刻みこまれない俳句はつまらない。その造花の様なつまらなさからのがれる為、山頭火の場合は自由律や話し言葉へと収斂していく。故に人間の肉声が感じられるのであろう。
日々過ごす日々を過つ実南天