『詩人のノート』田村隆一(朝日選書1986)より抜粋
etching 食刻法、腐食銅版術後、エッチング《蠟引きの銅版に針で絵などかき、酸で腐食して原版を作る》エッチングによる版画。
「腐刻画」という言葉、そしてその文字に出会った瞬間、ぼくの内部に渦動している未分化のものが、暗緑色のイメジをつくりだし、ひびきと色彩をともなって、短い散文詩が生まれた。わずか二連で成立していて、連と連の断絶するところに、その一瞬の空白に、ぼくの「詩」があった。むしろ、この作品の真の狙いは、断絶と空白をつくり出すことにあったといっていい。
腐刻画
ドイツの腐刻画でみた或る風景が いま彼の眼前にある それは黄昏から夜に入ってゆく古代都市の俯瞰図のようでもあり あるいは深夜から未明に導かれてゆく近代の懸崖を模した写実画のごとくにも想われた
この男 つまり私が語りはじめた彼は 若年にして父を殺した その秋 母親は美しく発狂した
ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ
「朝日ジャーナル」昭和49年から50年の連載をまとめた一冊。田村隆一氏、この時53歳。
現代詩の紹介を折り込みながら、エッセイとしても楽しめる、気軽な読み物となっている。
上掲はデビュー作、「腐刻画」について語った部分。この文章までもが散文詩、彼固有の美しい文体である。
又、『ぼくにとって、詩は、感情の発露ではなくて、なまの感情を隠匿するところだ。』とも書いている。
この間接的な表現方法が、現代の読者(創作者)にも受け入れられる要因ではなかろうか。あちこちに気を配りまくったネット上の文章を見る度に、この『隠匿』というキーワードが頭をよぎる。
紫陽花の森叫ぶが声は聞こえない