『〈殺し〉の短歌史』現代短歌研究会編(水声社2010)より抜粋
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宗教も文学も特に拾わない匙を医学が投げる夕暮れ
仏にしてから殺したかったが殺してからでも遅くはないから仏にしたい
バス停にベンチがあって座ってる 事なかれ事なかれ
人をころす自由はあると思いたい ことばの上でかまわないから
殺される自由はあると思いたい こころのようにほたる降る夜
いつまでも日なたがつづくむき出しの坂道くだるむこうから人
ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ
物騒なタイトルを付けられたこの本の趣旨は、実際に手に取った人だけが解れば良いと思うので、ここでは省略する。
上掲は黒瀬珂瀾氏の評論、『サカキバラからアキハバラへ「殺人事件」の非短歌性をめぐって』の中で引用された、斉藤斎藤氏の連作のごく一部である。
黒瀬氏は、
語るべきは作者自身の声であり、殺す、そして殺される私自身が存在する可能性の考察へ収斂し、今を生きる一瞬を再認識する…中略…すなわち、生きる者、死ぬ者を選別する紙一重の運命に身をさらすわたしの声を見返すことこそが、現代の殺しを歌うことなのではないか。
と結論付けている。
俳句と比べ、短歌では時事詠に積極的に取り組む傾向があるが、安易な物語の消費に陥らぬよう心掛けなければならない。
それはそれは見事な苺口実に